俳人金子兜太の全人間論ノート③ 岡崎万寿

『海原』No.55(2024/1/1発行)誌面より

連載 第3回
俳人金子兜太の全人間論ノート 岡崎万寿

 (2)「秩父音頭」絶唱のすべて―「最後の一年」

 兜太の現役大往生について考察する場合、いま述べた「天からいただいた十日間」とともに、兜太が高齢のための中締めとした俳句人生の整理と、これからを考え実行した「最後の一年」に関しても見過ごすわけにはいかない。そのポイントとなる広い意味での兜太の行動を列記すると。

① 金子兜太主宰誌「海程」の終刊(二〇一八年七月・五四四号)と、安西篤ら同人たちによる後継誌「海原」の創刊(同年九月号より)
② 黒田杏子ら編集委員による雑誌「兜太TOTA」の創刊(二〇一八年九月・一号〜二〇二〇年三月・四号まで)と、それにともなう兜太インタビュー三回(二〇一七年六月一日・十月二十五日・十二月十三日)
③ 「朝日俳壇」選者(一九八六年十二月〜二〇一七年十二月・三十一年間)を下りる
④ 『金子兜太戦後俳句日記』の終結(一九五七年一月二日〜二〇一七年七月三日・六十一年七ヵ月間)同出版(第一巻二〇一九年三月、第二巻同年一〇月、第三巻刊行予定)
⑤ 「俳句弾圧不忘の碑」(長野県上田市「無言館」敷地内)の揮毫と筆頭よびかけ人(二〇一七年秋)
⑥ 現代俳句協会七十周年大会と秩父音頭の絶唱(二〇一七年十一月二十三日)
⑦ 伊藤園の「お〜いお茶新俳句大賞」(一九八九年〜)の最終選者。二〇一七年の第二十九回まで(ちなみに二〇一八年の応募句は二一〇万句)

 つまり最晩年の兜太は、自らの軽い認知症や体力のおとろれなどあまり気にとめず、やるべき、あるいはやりたい仕事、果たすべき責任を、一つ一つ楽天的に、そして頭脳明晰にやりこなしている。
 ここに挙げた七つのポイントは、そのほとんどが、それぞれで文章化されている。したがって、ここでは私としてあと一歩、突っこんだ解析をしておきたい⑥の「秩父音頭の絶唱」にかかわる、兜太の人間分析を中心に述べる。
 金子兜太が第三代会長を十七年、名誉会長を十八年務めた、現代俳句協会の創立七十周年記念大会が、二〇一七年十一月二十三日、帝国ホテルで盛大に開かれた。九十八歳の兜太は車椅子で参加し、「特別功労者」として表彰された。
 その前、大会成功へむけて同年九月二十一日と十一月八日、熊谷の自宅で、現俳協会長の宮坂静生のインタビューを受け、俳句と現俳協と自分のこれまでとこれからについて、その想いのたけを存分に語っている(「現代俳句」二〇一七年十一月号、二〇一八年八月号に掲載)。
 印象に残る言葉を二つだけ。

 金子 もう少し、センスを磨いて、あらゆるものを自分の鏡に照らして割り切ってしまうということができるような、そういう人間でなきゃだめだ……。
 宮坂 金子兜太は主張としてはかなり厳しいことを言うけれど、人間としてはみんなをまとめるというか楽しくするというか、先生には、俳句を超えた大らかさというか懐かしさというか、そういうものがあった。それは現代俳句協会にとってはすごく貴重な宝だ、歴史的といってもいいような貴重な宝だと思いますね。

 そして当日の夜、帝国ホテル・孔雀の間で行われた祝賀会の宴で、兜太は席についたままマイクを握り、深呼吸をして、秩父音頭を朗々と熱唱した。このサプライズに会場は沸きに沸いた。その感動と興奮を二人の言葉で紹介しておこう。

宮坂静生(「俳句」二〇一八年五月号)
 兜太さん九十八歳。こんな見事な生涯がどこにありましようか。……
 そこで突然、唄うかといって、十八番の秩父音頭「ハアエ鳥も渡るかあの山超えて鳥も渡るかあ山越えて(コラショ)雲のナアーエ雲のさわ立つアレサ奥秩父ハヨイヨイヨイーイヤサ」を喉から声をしぼり出すように、懸命に唄われました。絶品、いや絶唱でした。みんな泣いていました。

宮崎斗士(「現代俳句」二〇一八年二月号)
 お席についたまま秩父音頭を熱唱。これがもう圧巻。拍手の嵐。そのあと車椅子で会場を退出することになり、私がその車椅子を押す役目を務めることになった。その道すがら、五百数十人の集う祝賀会場が大盛り上がり――拍手、握手、抱擁、写真撮影、感謝、祝福、激励、泣いている方も大勢おられた。まさに出席者の方々の金子先生への思いが爆発するひととき……どなたかが「これぞ俳人金子兜太の花道だ」とおっしゃっていた。

 満席の会場には現代俳句協会の面々はもとより、来賓として有馬朗人(国際俳句交流協会会長)、大串章(俳人協会会長)、大久保白村(日本伝統俳句協会副会長)をはじめ、柳田邦男、芳賀徹、角川歴彦(角川文化振興財団理事長)などの文化人、出版界の大所の方々が参集されていた。
 兜太の秩父音頭の絶唱が、こうした代表をふくむ満場の人びとを大拍手の渦にまき込み、一体となって兜太への感謝と長寿を祝っていたのである。苦難の多かった兜太の俳句人生を振り返って、まことに相応しい「花道」であった、と私も思う。

 俳人兜太にとって秩父音頭とは何か

 それはただ故郷の民謡を十八番にしているというだけでな
く、何か運命的なものがあるようだ。青年兜太が戦地へ出征
するに当たって、俳句仲間が催した壮行会での秩父音頭の一幕が、そうだった。その感動を、師の加藤楸郎はいくどなく
語っている。

 一同しいんとひとつの踊りに見とれてしまった。伊昔紅・兜太父子が踊り出したからである。しかもその踊りはすっかり着物を脱いで生まれたままの姿なのである。父も子も声を合わせ、足どり手ぶり合わせて、二本の白熱した線のやうに踊りつづけるのだった。……
 こんなにふくらみのある明るい、それでいてかなしさの滲透した壮行は前にも後にもまったく経験したことがない(「俳句一九六八年九月号」)。

 私はこの出征壮行会のときも、そして今回の現俳協の祝賀会のときも、兜太が秩父音頭を唄うその重みと深みは、死をもバックに意識した人間そのものの絶唱であったと思う。だから明るくて、どこか物悲しい不思議な迫力で、一同の心を揺する。
 その運命的とも言える、兜太にとって秩父音頭とは何か。
私は三つに要約してみたい。
 ① 兜太が小学四年(一九二九年)の夏から数年間、秩父・皆野の金子家の広い庭で、毎晩のように父・伊昔紅を中心とした正調(再生)秩父音頭の唄と踊りの練習が続けられた。兜太たち子どもも、七七七五音の調べと歌詞に慣れ親しんで、折りにふれ大いに唄い踊った。部屋で寝ている時も飯を食いながらも、その唄を常に耳にしていた。そのリズム感が、成長期の兜太の頭と肉体に沁み込んで、「俳句しか能にない人間」になったと、本人がよく語っている。

 その秩父音頭の七七七五の歌が小学生の私に沁みこんだ。……子どもの頭とからだのなかにリズムもろとも沁みこんだ。これはまことに私にとって大きかった。……そこはちょっと他の人とは違うところじゃないでしょうか(『悩むことはない』)。

 ② この秩父音頭は父が、知事の依頼を受けて明治神宮遷座十周年記念(一九三〇年)の催しに奉納するため、それまで秩父で唄い踊られてきた野卑で隈雑な豊年踊りなどを、歌詞、節付け、踊りの三つとも作り直して、再生したものである。
 秩父地元の顔役で医者をやり俳句会をやり、冴えた音感と詩心を持つ伊昔紅の尽力があってこそ、その再生復興が可能となり、今日広く唄われている味わいのある秩父音頭となった。歌詞は一般から公募し、伊昔紅自身も「秋蚕仕舞うて麦蒔き終えて、秩父夜祭待つばかり」など、五つほどを作詞している。しかもその節付けに、農民で酒到れば唄の名手となる吉岡儀作と掛け合い万歳よろしく、酒をくみながら「これならよかんべぇ」と練り上げていたようだ。その一景をとらえた兜太の名文が心に残る。

 その声が素晴しかった。厚い胸郭いっぱいからしぼりだされる声は、疳高くしかも豪宕。稜々たる山気をはらんでいた。「これが秩父だ」――伊昔紅はしばしば膝を叩いて感嘆し、そして酒をついだ(「秩父音頭再生由来」金子兜太・前記『秩父学入門』」所収)。

 兜太をふくめこの三人、いずれもなるほど秩父人同士である。

③ 秩父音頭の再生にあたって、父・伊昔紅は古くから秩父に伝わる文化芸能を大切に取り入れている。もともと秩父は江戸のリゾート地で、田舎歌舞伎が三座もあって文化レベルの高いところだった。兜太の祖父・茅蔵は生業のうどん屋などのかたわら、その田舎歌舞伎の女形役に熱をあげていた。伊昔紅はその父・茅蔵の芸を珍重し、協力してその所作を新しく秩父音頭の踊りの振り付けに生かしている。
 こうして秩父音頭は唄、踊りそろって楽しく整美され、秩父を代表するいささか格調ある民謡として、公開されたのである。

 父・伊昔紅はその後も秩父音頭の家元として、その宣伝普及に力を尽くし、続いて弟の千侍が、医者ととに秩父音頭の家元を継いでいる。父・祖父・弟と、三代にわたって郷土民謡の秩父音頭の復興と普及にたずさわってきた金子家の血脈は、俳人兜太の言い知れぬ誇りでもあった。各所でその事実を自分史と重ねて語り、書き残している。また逆境のときも好調のときも、進んでこの秩父音頭を唄い、踊って座を和ませ、自らを励ましていた。産土との一体感がますます濃密になる。
 見るとおり、秩父音頭は俳人兜太という人間をつくった、いや人間そのものであったと言える。それが最晩年、病中にもかかわらず、現俳協大会の祝賀会での秩父音頭の絶唱となり、万場の感動を呼び起こした内面の背景ではなかったのか。そこに秩父人・俳人兜太のすべてが集約されていた。振り返って、私にはそう思えてならない。

 先に引用した、兜太の「秩父音頭再生由来」によると、数ある歌詞の中で、兜太は父・伊昔紅自身が作詩した、つぎの歌を好んでよく唄っていた。

 花の長瀞あの岩畳
  誰を待つやらおぼろ月
 秋蚕仕舞うて麦蒔き終えて
  秩父夜祭待つばかり
 炭の俵を編む手にひび
  切れりゃ雁坂雪かぶ

 なるほど少青年の兜太自身が、ありありとその場にいる様子が感じられる。

((二)の章 了)

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